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history_img05神戸港は1868年1月1日(明治初頭)、鎖国が解かれ外国に開かれた6港のひとつです。そのころの神戸は人口5千人ほどで余り大きな都市ではありませんでした。しかし、外国に門戸が開かれたために、多くの新しい文化が神戸を窓口として日本に入ってきました。 当時は船でのみ、人と物が交流していた時代です。したがって、港の近くに外国の人たちは貿易の会社や住まいを作りました。その面影が、港に近い旧居留地や山手の北野異人館街等に残っています。
そこには食料や衣料・日用品等、外国人が生活をするのに必要な「物」の需要が興ります。 それまでは日本人にとって馴染みがなく、ぜいたく品・高級品であったものが地元や近くの村々から集められ、多くの生活物資が神戸に集まってきました。 砂糖・卵などや、日本人の食す習慣のなかった牛乳・牛肉もその一つです。 神戸は貿易港として商業・造船・鉄鋼・重工業等が栄え、急激に都市化して行きました。これは商都大阪の近くに位置していたのも大きく影響していることでしょう。
history_img07当店の創業者で「瓦せんべい」の考案者である松井佐助は、明治の初めごろ、神戸に出て来て菓子屋で奉公をしておりましたが、創意工夫に長(た)けた性格から、日頃製造をしている菓子に飽きたらず、当時の神戸ならではの環境から入手しやすかった材料を使って改良を重ね、小麦粉だけを練って作っていた和風のお菓子を参考に、高価で他の地方では入手しにくかった砂糖・卵等をふんだんに使い、洋風の味覚を醸(かも)し出した菓子を作り上げました(同じ材料をオーブンで焼き上げると「カステラ」となります)。

長い鎖国で、憧れの西欧文明に接したことのない庶民にとっては、このような洋風の味覚はとてもぜいたくで、文明開化の香りのする斬新な食べ物で、別名「贅沢(ぜいたく)せんべい」や「ハイカラせんべい」とも呼ばれました。 history_img08 その意味からすれば「瓦せんべい」は、和菓子というよりは神戸の「洋菓子」の始まりだったとも言えます。
また、その当時、江戸幕府は大政奉還をして明治政府に政権が移行しました。 明治政府は、天皇中心の政治体制を確立するため、鎌倉時代末期に後醍醐天皇を守るため「忠君愛国」を謳(うた)い、神戸の湊川の戦いで殉死をした、楠正成(くすのきまさしげ)を奉った「湊川神社」を造営しました。当時の風潮として天皇制に移行した直後なので、多くの人々が参拝をし、楠公を奉(たてまつ)りました。 そんな楠公を、新しく考案した「せんべい」に焼きつけ、自らの趣味であった古代瓦の収集にヒントを得、屋根瓦の形に整えました。

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history_img10このような神戸ならではの時代背景により「瓦せんべい」は誕生し、松井佐助は明治6年「亀井堂総本店」を創業しました。「亀井堂総本店」は、当時神戸で最も通行の多かった「西国街道」沿いに店を構えました(後に「元町通り」となり多くの商店が軒を並べる神戸の中心地になりました)。「灘の酒」以外にこれといった名産もない寒村の土地であったため、たちまちのうちに神戸名物としての名声を得るようになりました。
このことは、明治23年に東京で開催された博覧会に出品された『神戸名物の「瓦せんべい」が大好評を博した』と、当時の新聞に紹介されたこと、また、菊田一夫の小説「がしんたれ」の書き出しが「亀井堂の瓦せんべいは神戸の名物である…」と始まっていることでもうかがい知れます。
また、大正12年発行の「趣味の名物及特産3月号」(大阪・名物及特産社」)の中に「神戸の名物と云へば、誰でもが先づ第一に指を折るのが瓦煎餅である。」という書き出しで始まる綾亭子著「客足の絶へぬ瓦煎餅の龜井堂」という記事があり、当時の亀井堂総本店の人気の秘密が分析されています。先ず第一に材料の吟味に苦心していること。玄人にでも分からない程のごく僅かな差違にも妥協をせず、材料の品質を落とす事をせず、最上の優良品を用いていること、常に新鮮な商品を提供して品質を第一として目先の小欲を捨てひたすら製品の向上に腐心している結果、「瓦煎餅なら龜井堂」と世間から言われる信用を博した、と書かれています。
 創業当時から変わらぬこの精神こそが暖簾を守り続けた基盤であり、先人達の想いを継承して伝統の手焼き製法を伝承しつつ、常に時代に即した顧客満足に努力を惜しまぬ事こそが、現在の我々の使命とし、未来へ向けて歩み続けています。